学校とコミュニケーション

by Commodore Gandalf Cunningham
学校ってなんなんだろうって考えたときに、まず始めに同年代の人間がひとつの場所に集まってきて同じ活動を要求されるわけなんだと思うんだけど、その中のキーワードにコミュニケーションという物がある気がする。
他人に興味を持つと言うことは良いことだ。それはコミュニケーションの機会が増えるということにつながるだろう。
ただ、そのコミュニケーションにも質の違いがある。不特定多数の人間と無差別的にコミュニケーションを図ろうとしている場合、今までの人生の中で全く知り得なかった人間が出てきたりする雑多な空間であるからこそ生まれるコミュニケーションを得られる可能性がある。
雑多な物、粒の大きさが違う石を排除した空間。それが学校ではないだろうか。
図書館に目を当ててみよう。区立の図書館などでは1日中新聞のコーナーに居座り続けている人がいたりと、とてもおもしろい(僕はこういう人に声をかけたがる)しかし、学校の図書館は基本的に学園内に侵入を許された、いわば身分の証明された人だけが居る。言い換えれば入学というふるいにかけられた粒の大きさが大体同じ人間がいるのだ。つまり大体、同級生は自分と同じ人間だと捉えることが出来る。学校はあえて外部の人間には解放しないで内部の人間だけに使わせているのだ。
一方で学生は年代がある程度離れていたり、さっきのような区立図書館の中の異色な人から刺激を受けて燃える事が多いと思う。大体同じような生活を送ってきた学園内の人間には生まれないような価値観を持った人間からの方が学ぶ要素が多いことを知るからだろう。
学校の図書館が雑多な物を排除しているという現状から考えると、学校にかよっている間はそういった刺激をうけすぎないように自らコントロールするべきなのだろう。学校がそれを望んでいるということだ。学校が考えてきた長年正しく成長させる方法というのに背いてしまうというのは危険な事なのかもしれない。










最近のコメント