携帯の液晶が朝起きたら割れていた。 なんでだろう?頭の重さに絶えられなかったのか?
それともストラップをはさんだろうか?原因は不明だ。
実は、以前にも同様の現象が起きていて、その時も朝起きたら枕物にあった携帯の液晶が割れていた。
ということは、これってもしかしたら製品上の欠陥何ジャね?とか思いつつもきちんと5千円を払って直してもらいます。てかこの壊れやすさも一緒に治してほしい。。。病気だろこれは…
で、現在はその割れた携帯はDoCoMoに回収されて、代替機が手元にあるわけだが、こっちの携帯の方が使いやすくてこのままが良いんだが…
機種変を検討しても良かったなぁと思いつつもおそらく直した曉にはあと1年は使うことになるんだろうなぁと思って鬱だったりする。
前回のポストとかぶるんだけど、この6年間でまとまって勉強したという記憶がない。少なくとも一般的に認められている勉強をしてきていない。
その為、基本的に知識がないし、世間一般から言われる教養も少ない。
人と違った風に生きるということを好み、一種の美徳なんだと勘違いしていた部分があったようだ。
今の段階では普通に生きることも出来るという選択肢を残しておかないと、将来限られた方向に縛られてしまうのだろう。
普通に勉強して普通に生きるということをやってみようと思う。
入学してから6年間が過ぎた。その間に合計6回の記念祭があった。その多くを模擬店に費やし楽しんだ。
実際に終わってみると虚無感が有ることに気がつく。と同時にこれからはもう2度目はないのだという事にも気がつく。
あっという間に過ぎてしまった6年間は決して無駄な物だとは思わない、やり直したときにもっと別な事をやりたかったとも思わない。
今までの経験が今の自分を形成していると感じるし、それで良いのだと思う。
現段階ではこの6年間を感じて居るのが、おそらく成人し、ある程度年を重ねたときにも同様に感じるのではないだろうか。
大して月日は人間を変えないし、それを信じて時だけが流れると大変な事になってしまいそうな不安がある。
そんなことを考えたりしながら、今日も終わる。
記念祭で大量に残ったお好み焼きとクレープの材料を持ち帰ってからというもの、毎食残り物が出てくるのが精神的に追い込む原因にもなっているのだろうか。 いやそれは関係ないか。

以前、Twitterを使いこなす | kuroxという記事を投稿したりしてからTwitterを使うようになったのだけれども、そこに投稿した自分のポストへの返答からコミュニケーションが生まれてくる。
一概に、みんなフットワークが軽く、積極的な人が多いので どんどんと話は進み、実際にjubeatを一緒にプレイしたりしました。 (参考:今日の戦歴5 | kurox )
やっぱり、ネットワーク上で話をしていて、相手の事やその人の人間性とか難しいこととかも知っているつもりでもやっぱり良い意味でも悪い意味でも「ドコカ欠落してしまう情報」というのがあるもので、実際に会うとそれを感じることができました。
実は自分でも気がついていなかったことで、「Twitterで知り合っても一度mixiに持ち込んでから」という法則があるようで、基本的にオフで会う人は一度mixiを経由しています。
仕事の依頼もmixi経由で来たこともあったので 、自分の生活の中でのmixiの占める割合というか影響力というかはかなり大きく強いのではないだろうかと思います。
ネットを使うようになってコミュニケーション能力が失われつつある、とか薄くなっているとか言うことを言う人は居るけれども大きく手を広げ過ぎなければそういうこともないだろうし、本当に密に接していたいと思う人との時間も失われることはないのではないかと思った。

一人、または少人数の作成者の使用した時間が生み出したモノが如何に他者に多くの時間を使わせるモノなのか、同時にそのものが如何に自分という存在に近いのかということが、その人の価値を決定するのではないかと考える。
例えば、人気ゲームを作る人は人に時間を使わせるが、その対象はゲームであり自分自身が露出すると言うことはないので遠い。モデルなんかはまさに自分自身へ注目が集まり、表へでているので近いといえる。
時間がすべての人に共通で平等であると考えるのであれば、それはものさしとして適切であろう。

自分の名前や思いついた名前でドメインを取ろうとしたときに、真っ先にほしいのは「.com」ドメインだろう。
最もネットに浸透しているTLD(トップレベルドメイン)だし、どこの企業もこのドメインをほしがる。
しかしながら、この「.com」ドメインは1985年から登録が開始されているので、もはやメジャーな名前で登録することは難しい。
そこで企業では自社の名前を使っているドメインを高額な値段で買い取ったり、商標権的な理由から取り上げたりといった行動を取るわけだけども、これからもそのような動きは続くのだろうか。
個人的に、将来はTDLはほとんど識別するときの対象にならない存在になるのではないかなぁと思ってる。
一昔前はURLを覚えてもらって家でパソコンにアドレスを手入力するという方法がとられていたが、今はそんな事をする人は少ない。TVのCMですら、この「キーワード」で検索してくださいという宣伝をするのだから、検索結果にどれだけ影響を及ぼすことが出来るのか、上位を占めることが出来るのかというのが問題になってくるのではないだろうか。
その検索結果の上位表示を目指すため、SEOの観点からドメインを取得するというのは新しい考え方になるのではないだろうか。

jubeatという音ゲーを本格的(?)に始めてから2カ月くらい立つと思うけど、あるブレークスルーを通り超したら後は作業とかになるのではないのかなと思うわけです。
はじめのうちは光ったら反射的に手を出してがむしゃらに押してクリアを目指すというのが楽しかったりもするんだけど、やってくうちに次の段階に行 くと光って押すということはそもそも頭にあって、その上でさらにもう一つ何かを考える余裕が出来ると思うわけです。それがタイミングよく(目)押す事だっ たりするわけなんじゃないのかな…たぶんその余裕が出来たときにフルコンとかエクセ(タイミングまで満点)とかを出しに行けるのかな…と
この段階で何か考える余裕の出来た頭を使った遊びが楽しくないとゲームをやめちゃうんじゃないかなとも同時に考えます。jubeatの場合は、途 中で新しい曲やら称号などの要素を加えてそれを出来るだけさせないようにしていると思うのだけども。。。(これが先の作業と言う根底にあるわけ。)
そもそも、jubeatをはじめ、DDRとかビーマニとかドラマニ、ギタマニとかっていう音ゲーっていうのは要は楽器を演奏するということを体感 しよう的なゲームな訳であるから、実際にダンスなりドラムなりギターなりピアノなりをやれば良いことなのではないかと思うわけです。
楽器ともなるとそこにはjubeatの様なわかりやすいゲーム性が無いように思えるかもしれないけど、決してそこに陳腐なゲーム性を求める必要な くて、楽器をやると言うことはそれだけで別の楽しみが生まれるのではないでしょうか。ゲームのセッションプレイとかはその楽しみの一つを出来るだけ再現さ せているように思えます。
結局楽器の「劣化+付加機能付き」が音ゲーであって、どちらがより優れているのかという比較は視点によって変わるから難しいけど、そこを割り切って、全くの別物と考えればそれはそれでそれぞれ確立された物だなぁと(逃)。
こんな事をピアノのハノンを練習しているときに考えたりするわけです。(どみふぁそらそふぁみれふぁそらしらさふぁ…)。
そもそもこのピアノを弾くという行動までに
「jubeatで左手のピアノ押しの精度が悪い→ダンベルで筋肉つける→むしろ指の筋肉?→いや、それならいっそのことピアノやるか」
という思考があったわけで…そんなわけで訳のわからないものがずらーっとわいてきたという…
ワンピースというマンガは国民的なマンガらしい。らしいというのも自分は今までの人生の中で読んだことがなかったのだ。
というわけで、今日友人宅へ行ってwiiを改造し、CDやDVDを手渡したついでにマンガを20冊ほど(全部ワンピースですが)借りてきました。
現在10巻ほどまで読みましたが、ルフィーの純真な仲間を思う気持ちとかそれに集う仲間達とかがわかりやすく描かれていてヒットするのも納得です。
そうそう、外人とのチャットでの会話問わず、実際に会って聞かれて思うのですが、
「忍者は実際に居るのか」や「2刀流とはどういったものなのか」、「着物はコスプレなのか」、「萌えとはなにか」などという質問へ 対する正しい答えって言うのはなかなか聞かれてみないと考える機会というのは無いものだったりします。
海外に行って始めて日本の文化を考えるようになるという言葉も何となく理解できました。
ワンピースとか読んで置くと海外のギーク達とも多少なりとも語らえそうな気がしてみます。
という変な正当化。
jubeatをやるときの心境。
まず1プレイ目は若干緊張気味で、何をやろうか悩む。
とりあえず、Bass2Bassあたりに手を出してみるかぁ。うまくすればフルコンとれるかもなぁなんて思ってやるんだよね。
というのも、何回かやってると集中力とかが切れたり、体力的に腕がまわらなくなってきたりするので、なるべく早い段階でスコア更新をねらうんだよね。
そして、1回目でなにかをつかんだら2回目も同じ曲をプレイしてみたりする。
で、2回目違う曲を選ぶときは、とりあえずkurox.netにアクセスして何をやるべきなのか確認。一応どれがスコア低いのかとか色々と←、→でがちゃがちゃ動かしたりなんかして確認している。
以降フローチャート的な何かが作れそう
最後の方は、満足してきて他のDDRとかに興味が出てくる。大体4回くらいプレイしたらその日は満足。
DDR挟むと体力的に終わる。その日は爆睡コース。
何を書いて居るんだか。
インターネットの登場により一人一人が持つ価値観が揺らいで居るのではないかという疑問がある。
例えば、インターネットで一つ映画のタイトルで検索してみれば沢山のレビューが出てきて、そこではそれぞれの人が自分の思ったことを書いている。
それを読んだ人はその人の価値観を知ることとなるが、自分がまだ自分自身でその価値を考える前に人の価値観を見てしまうと、自分自身がこれから生み出す価値観に影響を与えてしまう。
はじめに自分で価値観を持ってから複数の価値観が存在するということを知るので有れば良い事だが、複数の価値観が有ると言うことを知った上で自分の価値観を生み出すという逆の流れでは自分自身の気持ちが訳のわからないものになってしまう。自己アイデンティティが確立する前は非常に揺らぎやすい。
また、映画のレビューにおいても人の価値観をその人の押しつけだと感じる事がある。それに対して自分が別の価値観を持っているとすると、自分の価値観を相手に伝えたくなる。そこで発生しているのが、アイデンティティの露出ではないか。
また、同時に自分の価値観とは違った価値観を他の人から伝えられたときには、「自分は誰かから評価されている」、「生きている手応え」、「生きがい」を感じる事が出来るのではないだろうか。
だから人は映画のレビューを行い、「自分と波長の合う」読者の反応を求める。しかし、より反応を強く求める余り、しばしば煽りや過剰な意見を放つ。そういったことを含めてその人にしてみれば大切な自己存在確認をする場所なのである。