ウェブ媒体を新規に立ち上げようと思っても、なかなか立ち上げ後、軌道に乗らないと思う。
というのも、アクセス数を稼ぐサイト資産を持っていない場合は、そこからの流入が見込めないからだ。同時に被リンクが獲得できないということはSEO的にも不利だ。
なので、純粋に良質コンテンツを作っていたとしても、そのコンテンツが認知されるまでに非常に多くの時間がかかってしまうというのは言わずもがな。
良質なコンテンツを沢山投稿するというのは非常にランニングコストがかかる作業であるが、立ち上げ後しばらくは元が取れない。
サイト資産を持っておらず、ランニングコストがかかるという2点において、新規立ち上げは難しいのだ。

前回の続き。
2010年度入学AO1期、書類審査の結果発表が9月17日にあった。
合格発表の日が近づくにつれ、自信がなくなり、当日はなにも手につかないくらいに落ち着きがなかった。
あいにく発表の時(4時~5時前)には予備校へ行っていた為、居合わせる事が出来なかったが、親が確認していた為、夜に報告を受けた。
結果は、1次不合格ということで、2次の面接にはいけないこととなった。
実は、
個人的には、自分が落ちるわけないという自信があった。帰り道に面接で使えそうな本を何冊か買っているほどだ。ぶっちゃけ、自分を入学させないことは学部の損であるとさえ思っていた。
何を評価されたのか、されなかったのかというのがわからないため、何とも言えない。
ただただ、とても残念だ。
何もかもやる気が失せたが、1日使って、テレビやゲームをして、グダったら何とか気持ちを切り替えられた。
出したときにはこんな風に思ってた。
受ける前にも思っていた事は今でも変わっていない。
悔いは残ってない。自分の過去を振り返るには良い機会だったんじゃないかと思う。
将来何がやりたいのかというのも明確に出来た。これで、書類で落ちたとしてもしょうがないと思う。
ただ、自分のやってきたことに自信が持てたし、決して一般の勉強をしなかった分、損をしたとは思わない。
実際、書類で落とされてしまう結果となったが、悔いは無いし、ムダだとは思ってない。
そして、
「一般で入れる奴をAOの枠を使って入学させる必要は無い」、と相手が判断したと考える事で気持ちを一般に入れ替え、明日から本気出す。
今まで失敗、挫折を経験したことのない自分にとっては良い薬になった。ナメ腐った根性たたき直して頑張る。
今回、書いた書類一式は僕の受験が終わったら公開しようと思う。

7月中旬。
SFCで、AO入試が行われている事実を知る。
それからAO入試を受けるために、SFCの授業やらをネットで調べたり、SFC GCで実際に受けてみたりして自分に合っているな、と強く思うようになった。最難関AOという書き込みをネット上で見かけたが、倍率は一般受験とほぼ変わらない5倍程度だし、受けてみる価値はあるだろうと思った。
そして7月31日オープンキャンパスへと行って、AO受験を決意した。提出2週間前の事である。
その次の日から一般の勉強はやめて、AOの為に準備を重ねた。
最も時間がかかったのは志望理由書。
何を書いて良いのかわからず、書くことになりそうな本をひたすらに読み、Eラーニングを題材に書こうと決める。
従来のEラーニングの問題を把握しその改善案を上げ、発展途上での利用に活路を見いだす内容だった。Z会の添削コースで5回ほど直してもらって、後は自宅にこもって親に相談したり、先輩にメールで相談したり…ほとんど1週間まるまる志望理由書の構想作りになった。
自由記述スペース
これは1週間前になってから書き始めた。レイアウトは雑誌風にしようと思っていたが、最終的には可読性を求めて、雑誌風から変形させた感じのレイアウトになった。これは比較的、時間がかからなかった部分だ。というのも、自分のPRをひたすらに書いていけばいい。実は、この自己PRは志望理由書を書く前の段階で一通り上げておいたのを流用した。
そして、添付資料。
ちょくちょく進めたが、実はこれが志望理由書の次に大変だったのでは無いかと思う。添付した資料の枚数は数えていないが、100枚程度だろうか。3センチくらいはあったような気がする。自分の成果物をコピーするのだが、これが結構大変。新しくコピー機カラリオを購入して望んだ。
そして最後の2日で、
願書やその他の書類の手書きを書き始める。
志望理由書と自由記述は最後まで内容を変えることが出来るように最後に回した。
16日の夜。自由記述スペースを作り、志望理由書を手書きして寝る。自由記述スペースはコピーした紙を貼るという方法だったので、手書きはしなかった。
17日の朝、志望理由書を本書きし提出書類のチェックをして夕方、郵便局へ。
なんとか、予定通りに終了したのだった。
出した後、思うこと
悔いは残ってない。自分の過去を振り返るには良い機会だったんじゃないかと思う。
将来何がやりたいのかというのも明確に出来た。これで、書類で落ちたとしてもしょうがないと思う。
ただ、自分のやってきたことに自信が持てたし、決して一般の勉強をしなかった分、損をしたとは思わない。
余談だが、封筒に入らないかもしれないという懸念はあった。が、なんとか入った。(4つ角をセロテープで補強した)
この文章は提出した直後に書いた物だ。結果が出た後に書いた物はこちらにある。

今、実況中継が行われるTV(主にスポーツ)ではデータ解説があふれている。
「今日このバッターは誕生日です。」とか「連続安打更新中です。」とかだ。
後者はともかく、前者は全くいらない情報。
そこで、なにも知らない人が実況する事の面白さというものを提案したいと思う。
以下がその条件
一人で実況
見てる人と同じ視点
解説なし
しゃべり続けない
詳しい内容を知らない
こんな感じ。
ようは、はじめて見る映像に対して見てる人と同じくらいの前提知識だけで解説に望むということ。(映画とかでも先の展開がわからず、はじめて見る人と同じように興奮する。)
その時に、ずっと無理してしゃべり続けないで、映像自信が語る言葉を聞くということ。(ツーアウト満塁での場面とかでは黙っててほしい。その場面が語る。)
ニコニコ動画では既にこういった既存のメディア解説からちょっと離れた感じでやってるところもあるのかな。ゲームの実況とかがその良い例かもしれない。
(写真提供:
photo credit: bionicteaching)

by scottfeldstein
飽くなき探求心から、今まで大人が築いてきたビジネスモデルを破壊するような行動をとることがある。
そんな物が頭の中で占める割合は限りなく小さく僕らの行動を抑制するのには非力すぎるのだ。
ただ、その破壊的行動は自己中心的な欲望のみで形成される訳では決してない。
自分の欲求だけを満たせば満足するといった単純な物ではないためだ。
何かが見えない、その知らない事を明らかにしたい。
そして世界の人々に教えてあげたい。それらがつながったときに探求心が生まれ、そして時に今までの常識を破壊するような行動にでるのだ。
ブログを続ける理由を見つける時、探求心という言葉が重要になってくる気がする
全世界共通で不変な事というのは常に世界が変化するという事だ。
こんな事を言ってもどうにもならないと考える人も居るかもしれないが、これって今のインターネットに代入したときに、大きな意味を持ってくる気がする。
法整備は進まない。議論している課程で議論していた内容が覆されたり状況が変わってしまうのだからしょうがない。
ダウンロード文化の浸透。すべてのデジタルコンテンツは無料で入手できるようになったと考える若者内で広まる心。ただ、その心も変わりつつある。いつでもダウンロードできると考えることで無差別的なダウンロードをしなくなっている。いわばクラウドを自分の安全なHDDと考えている。
無料というビジネスモデルの破壊。Googleが好んで打ち出すコンテンツ無料という概念。無料で提供されてしまった商品が乗っかっている分野ではGoogleに対抗する唯一の手段が無料サービスに追随することになってしまった。コンテンツ自体ではなく広告から収益を上げる事に成功している事を考えれば、いわばGoogleの独壇場だ。ただ、この構図ももしかしたら政府の力によって崩されるかもしれない。今年のアメリカ政府に注目してみると良い。

by Yodel Anecdotal
この素晴らしき世界: Googleはどこまでオフラインに対応するのか?という記事を読んで反射ポストをしてみる。
Wataru氏はGoogle Gearsによって推し進められているオフライン化に注目して、今後のオフライン化はどのような方向性で進むのか考察している。
Google SiteのGears対応については同感だ。WordPress等では既に使えるレベルまできているので、Google Siteでも利用可能にするのは難しいことではない。 (( ちなみに、Google Readerがオフライン化されるのではないかとも提案しているが、これは既にGearsによって実現されている。 ))
しかし、Bloggerのオフライン化というのには疑問を持った。
ブログを書くのにはネタを集め記事を書き構成したりと、多くの時間を要する。その作業をオフラインでするとどこでも記事が書けるようになるというわけだ。
とある。つまり、Bloggerネットワーク全体のブログをキャッシュ化することでオフライン環境を作り、ネタを集める事(つまりはネットサーフィン)を可能にしようという壮大な考えなのだろう…
確かにどこでも記事が書けるようになるが、他のサービスが自分のみがコンテンツを追加するのにたいして、Bloggerネットーワークでは他のユーザーも居る。キャッシュの量は膨大になるだろうし、情報は常に変わるので結局、毎日Bloggerネットーワークと同期を取らないと情報が使い物にならない気がする。
僕はむしろGoogleはオフライン化を推し進めているというよりは、オンライン化を推し進めているような気がしてならない。つまり、すべての場所からWifiなどでネットワークにアクセス可能にしようとしているのではないかということだ。
オフライン化に一部手を出しているのは、インフラ的な意味でオンライン化が間に合わないので、暫定的に疑似オンライン環境を作ってあげているのだけなのだ。
本当にネット環境が整えば 、PCの内部にHDDなんていらない。現行のネットブックが打ち出す、「モバイルノート+イーモバイル+オンラインクラウド」で十分すぎるのだ。
いったんユーザーをオンライン環境に持ってこれれば、Googleの勝ちだ。ほとんどどこへ行ってもGoogleが追っかけてくるだろう。

by Commodore Gandalf Cunningham
学校ってなんなんだろうって考えたときに、まず始めに同年代の人間がひとつの場所に集まってきて同じ活動を要求されるわけなんだと思うんだけど、その中のキーワードにコミュニケーションという物がある気がする。
他人に興味を持つと言うことは良いことだ。それはコミュニケーションの機会が増えるということにつながるだろう。
ただ、そのコミュニケーションにも質の違いがある。不特定多数の人間と無差別的にコミュニケーションを図ろうとしている場合、今までの人生の中で全く知り得なかった人間が出てきたりする雑多な空間であるからこそ生まれるコミュニケーションを得られる可能性がある。
雑多な物、粒の大きさが違う石を排除した空間。それが学校ではないだろうか。
図書館に目を当ててみよう。区立の図書館などでは1日中新聞のコーナーに居座り続けている人がいたりと、とてもおもしろい(僕はこういう人に声をかけたがる)しかし、学校の図書館は基本的に学園内に侵入を許された、いわば身分の証明された人だけが居る。言い換えれば入学というふるいにかけられた粒の大きさが大体同じ人間がいるのだ。つまり大体、同級生は自分と同じ人間だと捉えることが出来る。学校はあえて外部の人間には解放しないで内部の人間だけに使わせているのだ。
一方で学生は年代がある程度離れていたり、さっきのような区立図書館の中の異色な人から刺激を受けて燃える事が多いと思う。大体同じような生活を送ってきた学園内の人間には生まれないような価値観を持った人間からの方が学ぶ要素が多いことを知るからだろう。
学校の図書館が雑多な物を排除しているという現状から考えると、学校にかよっている間はそういった刺激をうけすぎないように自らコントロールするべきなのだろう。学校がそれを望んでいるということだ。学校が考えてきた長年正しく成長させる方法というのに背いてしまうというのは危険な事なのかもしれない。
携帯の液晶が朝起きたら割れていた。 なんでだろう?頭の重さに絶えられなかったのか?
それともストラップをはさんだろうか?原因は不明だ。
実は、以前にも同様の現象が起きていて、その時も朝起きたら枕物にあった携帯の液晶が割れていた。
ということは、これってもしかしたら製品上の欠陥何ジャね?とか思いつつもきちんと5千円を払って直してもらいます。てかこの壊れやすさも一緒に治してほしい。。。病気だろこれは…
で、現在はその割れた携帯はDoCoMoに回収されて、代替機が手元にあるわけだが、こっちの携帯の方が使いやすくてこのままが良いんだが…
機種変を検討しても良かったなぁと思いつつもおそらく直した曉にはあと1年は使うことになるんだろうなぁと思って鬱だったりする。
前回のポストとかぶるんだけど、この6年間でまとまって勉強したという記憶がない。少なくとも一般的に認められている勉強をしてきていない。
その為、基本的に知識がないし、世間一般から言われる教養も少ない。
人と違った風に生きるということを好み、一種の美徳なんだと勘違いしていた部分があったようだ。
今の段階では普通に生きることも出来るという選択肢を残しておかないと、将来限られた方向に縛られてしまうのだろう。
普通に勉強して普通に生きるということをやってみようと思う。
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